NPO法人日本ホリスティック医学協会関西支部2009記念シンポジウム実行委員長 木村 泉
NPO法人日本ホリスティック医学協会関西支部長 黒丸尊治
本日、ここにホリスティック医学協会関西支部20周年記念シンポジウムを開催できたこと、大変うれしく思っております。
思い返せば、大阪の八尾で初めてホリスティック医学入門セミナーを開催したのが1989年5月のことでした。当時を振り返ってみると、まだホリスティック医学という言葉がほとんど知られていなかった頃であり、私自身も、ホリスティック医学とは何かをよく分からないままに動いていた時期でした。しかし、よく分からないながらも、今までの医療にはなかった何かすばらしい視点や取り組みがここにはあるという強い思いが、私を突き動かしていたのは事実です。だからこそ20年もの間、ホリスティック医学にかかわり続けられたのだと思います。
そのホリスティック医学の、大阪における第一回目の記念すべきセミナーには、今は亡き山下剛先生と中川米造先生に来ていただきました。当時からホリスティックな視点を持って積極的に活動をされていたお二人の講演でしたが、集まった参加者は20名足らずだったと記憶しています。
そのうちの半数は、私の病院の職員に無理にお願いして来て頂いたので、実質上の参加者は10人にも満たなかったのではないでしょうか。ホリスティック医学への強い思いはあっても、それだけでは人は集まりません。やはり地道に活動を続けていく、その過程においてだんだんと理解されるようになり、その結果として、次第に人も集まってくるようになるものです。
私たちはその第一歩を、まさにこの時に踏み出したわけです。 あれから20年、きょう、こうして集まってくださった多くの参加者と共に、シンポジウムを開催できたことは、なんとも言えぬ感慨深いものがあります。もちろん、20年という歴史を積み重ねることができたのは、毎回のフォーラムやシンポジウムに来て頂き、私たちを支えてくださった多くの参加者や会員の皆様、そして一致団結して関西支部を支えてくれたスタッフの皆さんのお陰だと深く感謝しております。
20周年にあたる今回のシンポジウムは、以前より是非一度お呼びしたいと思っていた五木寛之さんをはじめ、帯津良一先生、上田紀行さん、大下大圓さんという豪華メンバーで開催することができました。ホリスティック医学の考え方を根底に据えながらも、枠にとらわれない自由な視点や発想から、もう一度ホリスティック医学を見つめ直し、この激動の時代をどのように生きていけばよいのか、生死をも超えた視点から大いに語っていただきたいと思っております。
このシンポジウムが、皆さんの「今を生きる力」を呼び覚ますきっかけとなり、また関西支部もこれを機に、ホリスティック医学の新たなる始まりへの第一歩となることを心から願ってやみません。
チケット代 (全席指定)
当日券 |
会員 4,500円 |
一般 5,500円 |
■生活習慣病予防指導士認定者は、出席すると2単位取得できます。
会場:御堂会館大ホール 大阪市中央区久太郎町4-1-11 TEL(06)6251-5820(代表) ■地下鉄御堂筋線 「本町駅」8号出口南へ200m ■地下鉄中央線 「本町駅」13号出口南へ50m |
日本ホリスティック医学協会が設立されて20年余り、関西において1989年5月に第1回セミナーが開催されてから今年で20周年を迎えることになりました。
この間90年代にはバブル経済の崩壊があり、21世紀にはいった現在100年に一度といわれる大不況の時代に突入、さらに政治の混乱、医療崩壊、予想を超えた地球の温暖化が起因すると考えられる異常気象の日常化等私たちを取り巻く環境は大きく変貌しつつあります。
さらにわが国は世界有数の長寿国である一方、自殺者が年間三万人をこえる自殺大国にもなりつつあります。このような大混乱の“いまをいかに生きるか“それが本日のテーマであります。
本日のシンポジウムは「スピリチュアル仏教」を通じて医療、福祉分野にも貢献されている飛騨千光寺住職の大下大圓氏、癒しをひろめられ、私たちの抱えている問題は「生きる意味の不況」と指摘される文化人類学者の上田紀行氏、「生と死の統合がホリスティック医学の目標」と説かれる当協会の帯津良一会長、そして「そろそろ覚悟をきめなければならない」と説かれる作家の五木寛之氏と盛りだくさんな内容となっております。
ホリスティック医学とはひとことで言うと「人間をまるごと全体的に見る医学」といえますが、協会の理念として「人間、地球、生命まるごとの医療をめざす」とされております。 私の考えではこれにさらに宇宙的な視点も加えることが必要かと考えております。
本日は講師の方々のみならず、ご参加の皆様方にも激動の時代のホリスティックな生き方について考えていただければ当シンポジウムの目的は達せられるものと信じます。